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第1回 最優秀作品賞

 最優秀作品賞 『妻に引かれて』

白石 幸則さん(埼玉県)

牛に引かれてお寺をお詣りするようになった人がいたというが、これは妻に引かれて人間ドックに行くようになった私の話である。

だいぶ前のことだが
「お前の家は早死にの系統なんだから、今のうち仲間と遊んでおかなきゃだめだ」
古い友人に、怒るように揶揄されたことがあった。仕事にかまけて、私は付き合いが悪かったのだ。

自慢にはならないが、確かに私の家は代々早死にだった。祖父は四十三歳(写真でしか見たことがない)、父は五十二歳で他界している。どちらも病死。
一所懸命働くけれど、健康のことをかえりみないDNAが我が家に伝わっているのだ。

私もストレスを発散させるのが下手で、常にイライラし、ヘビーに喫煙していた。
一方、妻の実家は「健康第一」をモットーにしていた。毎年欠かさず、人間ドックに両親は通っていた。秩父の病院での温泉入浴付き日帰りドックがお気に入りだった。

けれど、年齢的に、そこまでの運転がおっくうになってきたので私たち夫婦に同行しないか、と声がかかったのだ。たまには女房孝行をと、私は運転手を買って出た。しめしめ、三人が受診している間、ヤマメでも釣っていようか、などという気持ちを妻に読まれ、鶴の一声で私も受診することになってしまった。四十歳の頃だったか。

何年か同行した私は、仕事のことを忘れて過ごせる人間ドックも悪くない、と感じ始めていた。妻と恒例のお出かけと思えば嬉しくもある。幸い私は注射も胃カメラも余り苦にならない。健康のお墨つきをもらうのも愉快であった。

その後、私たち夫婦は二人だけで群馬県のある病院の人間ドックへ行くようになる。義父母は高齢になって、色々な病院にかかるようになり、別行動になったのだ。

 それから、五年続けてドックを受診した。結果は蓄積されて、より効果的だった。担当の看護師さんたちとも顔なじみになれて何となく嬉しかった。

五十歳になる少し前、続けて二年、心臓の再検査が必要、との結果が出た。一年目は無視した。私の悪いくせの「健康過信」からである。ところが二年目は、妻にも肝臓の「要再検査」の結果が。妻に同行して私も病院へ行った。妻は異常なし。私には「心房細動」との診断が下された。

「聞いたことのない病名ですが、ほうっておくと失神したりするのでしょうか」

医師に訊ねると、寝たきりになるか死ぬ、との説明だった。

しばらく薬でようすを診ましょうとのことだったが、ひどい不整脈は一向に改善せず、医師の判断で群馬県立心臓血管センターを紹介されて入院が決まった。
カテーテルアブレーション(心筋焼灼術)という最新の治療を受けられて、心房細動は治った。
四泊五日の入院で、退院後一日休んだだけで仕事に復帰できた。
入院中、白いベッドで、ゆっくり本を読んだ。好きな小説を何冊も読み直した。テレビも見た。日曜朝のテレビは実に三十年ぶりだった。紀行ものの番組で、大勢の女性が列をなして踊る阿波踊りの映像が流れた。不覚にも突然涙があふれて止まらなくなった。むせび泣いてしまった。

まだまだ行きたい所がある、やりたいこともある。子供たちも一人前になっていない。死ぬわけにはいかない。一人部屋だったので信じられないほどの涙を流した…… 

出入りの業者に、彼の母親が心房細動による脳梗塞で寝たきりになってしまった、と聞かされた。

「あなたもそうなっていたかもしれない」

妻が真顔で言う。確かに他人事でなかったのだ。忙しい忙しい。俺だけは大丈夫。とやっていたら、私は今ごろどうなっていたことか。命拾いできたと思って、これからは「一病息災」で長生きしようと思った。

胸をかきむしるような苦労の末、タバコを止めた。酒は過ごさぬように飲んでいる。イライラせかせかした生活も少しは反省した。

自営業の私たちにとって受診のための出費は少々痛いけれど、健康には代えられない。市の補助も利用できる。
これからも定期的に体の点検を行なって、祖父や父の分も長生きするのだ。
五十歳から保護司としてボランティア活動も始めた。七十五歳の定年まで、その職責を全うしようと決意している。
健康な老後を迎えて、苦労をかけた妻と共に日本中を旅してみたい。
妻に引かれて人間ドック。行っておいてよかった。